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ゼミ課題読書感想文

小田遼 201204

 


 

ドストエフスキー『罪と罰』

 

ほぼ全篇を通してこの『罪と罰』には陰鬱な、重苦しい空気が充満している。厚い雲に覆われた空と湿った空気、汗も滴るような高い気温。主人公ラスコーリニコフの生活を象徴するようであり、金銭面の困窮と無為な生活、それらから来る未来への不安、そういったものが全て読み手にも圧し掛かってくる。

光明を見出せない生活を打開するための手段としてラスコーリニコフが考え付いたのが金貸しの老婆アリョーヴナの殺害及び強盗であった。では果たして、何が計画の実行へとラスコーリニコフを駆り立てたのか。

ラスコーリニコフは状況を打開するために前々からこの計画を頭の中で醸成させてきた。老婆の妹リザヴェータが家を開けてアリョーヴナが一人になる時間があると判明したのが実行を決意させることになった理由の一つであるが、長期的な視点から何がラスコーリニコフを強盗殺人の計画と実行に駆り立てたかについてはおおよそ2つの要因が挙げられる。1つ目には上述の金銭面の困窮による金の必要性によるもの、2つ目にはラスコーリニコフの思想の体現もしくは実験である。

ラスコーリニコフの思想は、ナポレオンなどの偉人が大義を達成するための過程で犯した殺人など諸々の罪は彼らの良心に照らして是認しうるというものである。ここから、ラスコーリニコフは自らが偉人であるかを確認するために老婆を殺害したと類推することは不可能ではない。またそれは全人類にとって正の影響をもたらすものでもあろう。事件の後にラスコーリニコフはある種の病気や事件の衝撃に捉われ、殺人によって自らの存在を確立し主体的に生きるどころか自分ではない操り人形として生きていくことになる。果たして老婆の殺害にそれを肯定できるような崇高な大義などあるのだろうか。少なくとも殺害は、自らの存在を確かめるための実験ないし試練に過ぎず、実行の身に捉われて何の意義もない衝動的な行動というほかなく、肯定的な意義は見出せない。

ラスコーリニコフの計画の成否、加えて自らが凡人か非凡人かどうかを判断する指標は、ラスコーリニコフが実際に新しいもの(ナポレオンの場合には新しい人類の法)を生み出したかどうかである。少なくともラスコーリニコフは何も新しいものは生み出していないし、何ら人類に寄与するものもない。激情や偶然の出来事に捉われた老婆の殺害は、かくして偉業を達成するための礎になることなく、ただの殺人となった。そしてラスコーリニコフは自らが凡人であることを己で証明することになる。

 殺人は倫理的に正当化されるべきものではない。だが、ラスコーリニコフにとっては老婆の殺害は肯定的な意義を認めることができる。殺害は金銭面では何らの恩恵も得ておらず、自分の手を汚しただけである。事件の影響に捉われ今まで以上に堕落した、何者かにとりつかれたような生活を送ることになる。

退職官吏マルメラードフの娘ソーニャとの出会いと彼女への罪の告白、そして収監がラスコーリニコフの人生の転換点となる。今までラスコーリニコフは自らの生を生きるのではなく、自らの思想に捉われて生きてきた。だが罪の告白と収監を経てソーニャと手をとりあって、未来に向かって生きていくことになる。

自らを凡人だと証明することになり、その思想の妥当性に疑問が生まれるものの、結果として老婆の殺害はラスコーリニコフの暗い生活の打開策として機能することになったといえる。ベクトルは違うが新たな生の展望が開けることになった。

ラスコーリニコフにとって殺害は思わぬ影響をもたらすこととなった。思想に生きる人間を実際的生活に生きる人間に変えた。思想を持つことは悪いことではなく、むしろ良いことである。しかし、思想はあくまでも思想そのままであるべきで、その力が実際の生活にまで及んで自らのコントロールが効かない程度まで生活を支配することは危惧するべきである。どこまでいっても人間は現実と離れて生きることは不可能であるからして、自らの生を思想ではなく主体的に生きることが必要である。何かに捉われて生きることの不毛さ、そんなことを『罪と罰』は描いているようにも感じられる。

 

 

読書課題 江戸川乱歩『江戸川乱歩傑作選』

17100014小田遼

 

 『江戸川乱歩傑作選』には殺人を犯す人物、奇行に走る人物など様々な人物が登場する。この傑作選には9篇の小説が収められている。推理小説から探偵小説、グロテスクな趣味の強い小説までその作風はこの9篇だけでも幅広い。

 特に強い印象を受けたのは『赤い部屋』だった。怪談同好会のような会合における、ある参加者の物語である。男は並みの快楽では欲望を満たすことはできなくなっていた。淫蕩も彼の心を満たすことはなかったが、ある日事故の怪我人をやぶ医者に無作為に案内してしまい、後日その怪我人が死亡してしまったということを耳にして、自分が起こしてしまった偶然を装った殺人に底知れぬ快楽を感じるようになる。男は数年かけて99人を殺害し、100人目の被害者を自分と決めていた。話が終わり、部屋に入ってきた給仕に自分に向けておもちゃのピストルを撃たせた。すると、男は血を流しうめき声を上げながら倒れた。男は命を落としたように見えたのだが、異様な声をあげて起き上がる。その実、銃に込められたのは牛の膀胱に赤いインクを詰めた弾丸だった。かくして男の身の上話はすべて作りごとであった。そして部屋にはろうそくの代わりに電灯がともされ、赤い部屋は姿をなくす。

 男は果たして奇人なのか。そして男に限らず、傑作選に出てくる、とても常識では考えられない所業をなす彼らは特別な人間なのか。自分はそうは思わない。語弊はあるが、常識的な人間の一人として数えられてもよいような人々であろうと考える。平凡な生活を営みながらもその心の中には歪んだ欲望を抱いていたり、重い過去を抱えていたり、はたから見ればごく平均的な一般人であるのだが、抱えた欲望などが顕在している、そういう人物である。本質的な部分では我々と異なった点はない。確かに『赤い部屋』や『人間椅子』の登場人物のようにアブノーマルな行為で快楽を得る人物は多くないだろう。そういう意味で彼らはマイノリティであることは間違いない。だがそこまで極端に走らなくても、少なからず個々人に個性が認められる限り、他人とは違う欲求や好みがあることも事実である。

 決して登場人物たちに親しみは覚えないし、彼らのような所業を成すつもりはない。だがどうしても彼らと自分の決定的な違いは何かと言われたら説明するのは難しい。結果を見れば、彼らは常識から逸脱した行為を犯しているが故に特殊な人物であるといえる。が、そうした行為を想像できることがすでに特殊であるということは必ずしも言えない(もちろん、著者を貶める気はなく、そうした想像を芸術作品にまで昇華させるという点では特殊である)。変態的な想像をするのが好きな凡人がいてもおかしくない。つまり、非凡性を心理という枠組みだけでとらえるのは難しい。犯罪や非行は個人の心理にのみすべての原因を帰することはできないので、当事者の内的要因だけではなく外的な要因までもその考察の対象に含めなければならないのである。

 

 

読書課題 プラトン『プロタゴラス‐あるソフィストとの対話』

17100014小田遼

 

 今から2000年以上も前の世界を舞台とした対話編の一つである『プロタゴラス』であるが、その内容は時代性に捉われたものではなく、多くの示唆を与えてくれる。

人間を人間たらしめている優れた能力のことを『徳(アレテー)』といい、当時のギリシアでは直接民主制の政治形態をとっていることから、国民は政治に直接関わることが求められるため、優れた徳と持つ人物が実際に社会を動かすことができた。それゆえ、優れた徳を身につけるために弁論術の達人といえるソフィストたちが重宝されたのである。しかし、政治に参加するための能力のみが徳ではない。徳には正義、節制、知恵、勇気などが含まれる。真っ当な優れた人間であることに必要なのが徳なのであろう。老獪なソフィストの一人、プロタゴラスは自身をしてソフィストの役割を「よき国民をつくること」と言った。これこそが徳の機能と言えよう。

この対話篇は、「徳は教えることができるか否か」ということが主題として展開されていく。徳についてソクラテスは、初めは教えることはできないとしたものの終いには、それを教えることができるものだという結論に至ってしまった。本人ですら意識はしていなかっただろう。解説にもあるように、議論の過程で間違いがあったのかもしれない。しかし、「徳は知識である」という考え方に一定の評価を与えてもよいのではないだろうか。確かに徳は知識そのものであるというと、徳について知識があるということが優れた良い人間であることの十分条件として認識される可能性があるゆえ、様々な誤りがある。徳は知識であるというのは、必要条件とみなすべきである。良い人間であることは知識ではなく実践が必要である。優れた知識を持っているだけで優れた人間であるとは言えないのである。知識と実践それぞれが適度なバランスを保ち調和しているのが徳の一番良い状態ではないだろうか。徳は何たるかということについての知識の教授は方法として必要であると同時に、実際によき国民でなければならない。こうした点から「徳は教えることができない」という意見も実践という点からみればある程度評価できる。

『プロタゴラス』では正義や敬虔などは徳の部分であり、顔のそれぞれの部位のように異なった働きをするものとプロタゴラスは語っていた。果たしてそういえるだろうか。思うに、それらはある統一的な概念に別々の呼称が与えられただけではないだろうか。正義を離れて敬虔もないし、知恵を離れて勇気もない。それぞれが有機的に結びついているのである。徳という一つの塊を、角度を変えてみると諸相が浮かび上がるという関係にあるのではないだろうか。

やはり、徳を身につけ良い人間になることは難しく、同時に良い人間であることも難しい。全うな人間の完成までの距離を自ら把握して、無知を自覚するということが知者であるといえよう。そうすると、どう考えてもソクラテスの以上の知者はいないのである。